7.endless
Love Song

その日から二度目の朝。
二人で生き始めて、一週間が経過していた。
若の顔色は一昨日よりは良くなって、食欲も少しだけ戻った。
だから不安は残ってたけど、俺は街まで消毒と包帯を買いに走っていた。
その途中、跡部さんに連絡しようかと思ったけど……思うだけにしておいた。
今ある俺の世界に、若以外は要らない。

「ただいまー若ー!」
若の部屋まで届くよう、大声で叫ぶ。
「若ー、林檎も買ってきたから食べよーねー!」
そしてダイニングへ入り、俺はハッとする。
「おかえり」
夢を見てるのかと、思った。
「わ、若!何してるの!?」
テーブルの上に買い物袋を置き、慌てて駆け寄る。
若はベッドから起き上がっていたばかりじゃなく、ダイニングの真ん中で立っていた。
「まだ歩き方を忘れてなくて良かった」
「若!ダメだよ、車椅子も使わずにそんな…!」
俺はすぐに若の肩を抱いた。
若にとって自分一人の力で歩く事が、ううん、立つ事がどれだけ大変な事か。
「何でこんな事…」
「今日は気分が良いんだ」
「だからって!戻ろう、若」
「そのつもりだ。お前を待っていただけだから」
若は俺の目を見上げて、口元を綻ばせた。

「お前と一つになりたい」
「え…――――」

俺は若が何て言ったのか、分からなかった。
聞き間違いかと、思った程。
「長太郎が欲しい」
「…………ダメだよ」
聞き間違い出なかった事を確信して、俺は若に返す。
「言っただろ。今日はとても気分が良い」
「ダメだ。ダメだ、ダメだ!そんな事したら若、」
「黙れ」
若は俺の口を手で塞いで、俺を叱る口調で言った。
「同じ言い訳は聞きたくない」
「!、……」
若が俺の口から手を離す。
肩から俺の手を解き、下ろさせる。
そして俺の目の前で一つ一つボタンを外し、若は肌を晒していく。
「本当に今日は気分が良いんだ。今日だったら、大丈夫な気がするんだ」
若の体は白くて少し細過ぎたけど、均整が取れていて彫刻を思わせる。
胸に巻かれた包帯さえ、若の魅力を掻き立てる装飾の様。
「俺は…お前を信じているから」

若の瞳は、若の強い覚悟を湛えていた。
この瞳をした若は、誰が何を言っても自分の意志を曲げないんだ。
何度も『下克上だ』って、この瞳で言ってたね。

「若…」
俺は若を抱きしめた。
若の腕も俺の体を抱き返してくれる。

俺は若を愛し抜く。
それが君と決めた覚悟だから。

「ん……」
ベッドの中でキスを交わす。
俺はなるべく若に負担がかからないよう、若に被さっていた。
「ぁ…」
耳から首筋から、色んな箇所にキスを降らせる。
白い肌に紅い跡が点々と刻まれていく。
「長太郎ぉ……」
「若…っ」
「んぅッ」
互いに求め合って口唇を重ねる。
何度も何度も舌を絡め、貪る様に互いを求めた。

指を絡め合い、決して離さないと掴み合う。
二人は幾度、この瞬間を夢見ただろう。

「あぁ…っ」
熱に浮かされた若の瞳はとても綺麗で。
若の熱い吐息が俺の耳をくすぐる。
繋いでいない腕は、まだ足りないと互いを抱き寄せ。
初めての快楽に戸惑った様な若の表情が、俺を堪らなく魅了する。

「若…行くよ?力抜いて……」
「……」
俺を一層抱き寄せて、若が頷く。

「ぁッ――――!」

ビクンッと若の体が大きく波打つ。
「長…太郎……」
「うん」
頷いて、若の涙をキスで拭った。

こんなに愛しい存在を、俺は知らない。
こんなに美しい存在を、俺は知らない。

「分かる?」
「ああ。やっと……やっと一つになれた……」
若が打ち震えているのは痛みからか悦びからか。
「若…」
「ぅあ…っ」
ゆっくり腰を動かして、若を感じる。
若の中はひどく心地良かった。
「もっと…強く抱けよ……っ」
「分かった……」
若の言うままに、俺は躊躇わず抱きしめる。
傷に障るからと遠慮をしたら、また若を傷つけてしまうから。
力強く、だけど唯一の宝を守る様に抱いた。
肉体的なものより、精神的な快楽と充足に満たされる。

「愛してる…っ」

互いに泣けてくる程幸せで、
互いの吐息だけが世界の声で、
互いの鼓動だけが世界の音で、

互いの存在全てだけを感じながら、もはや自分たちは一つの存在だと感じていた。

熱くて熱くて、このまま溶け合えたらどれだけ幸せだろう。
心も体も一つになって、二度と離れられなくなってしまえば、どれだけ幸せだろう。

だけど俺たちは、それを願わない。
それは我儘も欲張りも超えている。
だって、今、

「   」

世界で一番の幸せがここにある。

−−−−−

静かだ。
俺たちは言葉なく、抱き合っていた。
瞳を閉じて、初めて一つに結ばれた余韻に浸りながら、重なる鼓動に耳を傾けていた。
互いに溶け合う体温が、この上なく優しかった。
サラサラと揺れる若の髪が時々、俺の胸をくすぐる。
まだ高くない月に照らされて、俺たちは今もずっと手を繋いでいた。
「…………なぁ」
「何…?」
先に沈黙を破ったのは、若の方。
凄く穏やかな声で、夜の静寂に溶けていく。
「明日……朝陽が見たい」
「明日?」
俺の腕の中で、若が頷く。
「今は…世界中の幸せを独占したい気分なんだ…」
そう悪戯っぱく微笑んだ若は、月の光を受けてとても神秘的だった。
「…そうだね。じゃあ、今日はもうこのまま寝よう」
「ああ」
若が体を寄せてくる。
俺はもっと若の体を抱き寄せる。
「……おやすみ、若」
「長太郎も……」

時が止まれば良いなんて思わない。
だからせめて、今夜は止まる程にゆるやかに。

−−−

「…………」
月が南の空高く昇った頃、そっと若が瞳を開く。
「…………」
すぐ目の前で、恋人は眠っていた。
「長太郎……」
呟きに似た小さな囁き。

「              」

言って若は頬を染めた。
(俺も恥ずかしいセリフを吐けるようになったものだな……)
身を寄せた恋人の体は、命をかけて足る安堵を彼に贈ってくれた。

−−−−−

「若…」
ベッドを起こし、まだ暗い空を眺めていた恋人に、俺は声をかける。
髪が揺れて、若が俺へと向く。
「良い顔色。気分はどう?」
両手で若の頬を挟んで、俺は笑顔で問う。
「問題無い。最高の気分だ」
「じゃあ行こうか」
「ああ」
軽く頬を添え、若の下に腕を入れる。
体が冷えるといけないから、若が纏うシーツごと抱き上げた。
白を纏う若は、心から神聖に思えた。
「しっかり掴まって」
「分かっている」

俺たちは見つめ合い、ゆっくりと外へ出た。
キラキラと星が眩き、俺たちの行き先を照らす。
本当に静かだ。
世界で唯二人だけ。
そんな錯覚を覚えそうになる。
いや、もしかしたら今だけは、本当に世界で二人だけなのかもしれない。
風が優しく俺たちを迎え、シーツを羽衣みたいにゆらめかせる。

木々の中を進んで行くと、次第に境目が見えてくる。
夜と朝の境。
東の空は夜の紫を透明な白へと塗り変えつつあった。
光のラインが、向こう山の淵を教えてくれる。
森の出口を、俺は大きく踏み越えた。

先端に立って、俺は微笑む。
「着いたよ」
「ああ」
夜明けは近い。
広がる光が、どんどん大きくなっていく。
全身に風を受けて、俺たちは光を待った。
夜と朝とがとけ合う、幻想的な光景。

少しずつ少しずつ、陽が世界を照らしていく。

「ほら…若」
「――――」

若が息を飲んだ。
俺も、若以外は何もかも忘れそうになる。

どんな宝石の輝きも敵わない。
ほんの僅か朝陽が顔を出しただけなのに、その美しさは言葉では表しきれない。
美しい光が、俺たちを包み込む。

「ああ…」

感嘆の溜め息が、若の口から零れる。

 幸せに生きたい
 幸せに逝きたい

 永遠の笑顔なんていらない
 涙の絶えない日々でいいから
 ただ夢<死>に抱かれる その前に
 "アナタ"を想い出したい

 だから 今


「『ワタシはとても幸せ……』」

「…若?」
最上の微笑み。
若の頬は、一筋の涙で濡れていた。
「若…?」
その体を軽く揺すると、

パタ……

若の手が、宙に落ちた。



―――――。




俺は若の肩を抱き寄せ、顔を寄せた。
瞳を閉じて、もう目覚めない若の温もりを確かめた。
朝陽はその身を半分ほど現している。

「ああ…」

顔を上げて、俺は心から笑った。

「本当に綺麗だね、若…――――」

哀しくない。
もう俺たちは離れない。
ずっと一緒なんだ。
ずっとずっと、何があったって決して離れない。
だってもう俺たちに、


『さよなら』は存在しないんだから…―――――


――朝陽の眩しさに、少しだけ涙が零れた。

−−−−−

木々の中を歩く。
キラキラと星が眩き、俺の行き先を照らす。
本当に静かだ。
あの日と全く変わらない。
風が涼しく、俺の耳元を過ぎていく。
俺の胸元では、クロスモチーフが揺れている。
結び目は相変わらずそのままで。

「間に合った…」
木々の終わりから広がる緑。
夜と朝の境。
東の空は夜の紫を透明な白へと塗り変えつつあった。
光のラインが、向こう山の淵を教えてくれる。

あの日と違うのは、その先端に丸木で出来た十字架が建っている事。
俺は歩み寄ると、持っていた花冠を十字架にかけた。
別にこの下に若が眠ってる訳じゃない。
ただ、あの日の想い出やくそくとして。

東の空に目を戻せば、幻想的な光景が視界いっぱいに広がっていく。
あの日見た光景を、こうして若と二人で眺める。
「ねぇ、若」
俺は十字架と向かい合う。
「俺、大学を卒業したよ。と言っても、まだ数年は学生でいる予定だけど」
微笑みかけて、俺は『現在』を若と共有する。
だけど心を占めるのは、遠い日の記憶から。
「不思議だね。ここに来たら、過去が戻ってくる…」

若と出会って、俺は変わった。
『笑顔』の本当の意味を知ったよ。少し泣き虫になったかもしれない。
若の言動に一喜一憂して、初めて若の笑顔を見た時は怒られるほど見とれてた。
初めてしたデートの前日は、一晩中眠れなかった。
抱きしめると照れた瞳で怒るから、ついついまた抱きしめちゃうんだ。
からかうとすぐ顔を赤くして、結局最後は俺に言い負けて悔しそうにしてた。
だけど二人で笑い合って、何百年もこの時間が続けば良いって、また笑い合ってた。

素直になれず意地を張って、理解わかり合えずすれ違って、互いに傷もつけ合った。
けどそんな時だって、若はずっと俺を見続けてくれた。
だから俺も、若から目を逸らさずに見つめ続けられたんだと思う。
一緒にいられた時間は短かったけど、若は『時間』じゃないって教えてくれたよね。

『相手さえいれば他には何も要らない』って、
そう想える相手と出会えた事が幸せの始まりだったんだって、
沢山遠回りしながら気づいたね。

愛も幸せも優しさも、みんな若と一緒だったから見つけられたんだ。

「それでね、若」
俺は本題を切り出した。
「俺、海外に行く」
刹那、風がザワリと音を立てた。
「決めたんだ。留学して、卒業後も数年は世界を周ってようと思う」
すぐに…風は静寂を取り戻す。
俺の声に耳を傾けてくれてる。…そう感じられた。
「今日これから発つんだ。だからしばらく…ここには来れない」
躊躇いが生まれないよう、俺はきっぱりと言い切る。
そして、
「若」
俺は想いを胸に微笑んだ。

「俺は今でも若を愛してる」

現実から逃げてる訳でも、想い出に縛られてる訳でもない。
ただ今はこの想いが尽きるなんて事態が、まるで想像つかないだけ。
その証拠に、この想いには辛さが無い。

「待ってて。俺は必ず帰ってくる」

俺は若が好きだと言ってくれた、満面の笑顔を浮かべた。

「それで若にまた、惚れ直してもらうから!」

ヒュウ…ッ!
「うわっ」
突然の強風が俺を煽った。
だけどそれは、同時に凄く優しい風で。
「…………」
俺は十字架に向き直り、一層の喜色満面で頷いて笑う。

「行ってきます!」

あの頃の様に後先考えたりせずに、俺は来た道を駆け戻った。
振り返ったりなんかしないで、一気に走り抜ける。

いつか言う『ただいま』を、胸に抱きしめて。
胸張ってまたここを訪れる日まで、俺はずっと走っていよう。
どうせ俺の見上げる太陽は、若もここで見てるんだから。


ふわ…と草花が揺れる。

『長太郎……』

風に舞う花びらが、煌めいては光を纏う。
想いさえ風に舞う。

『お前を愛せて…本当に良かった』


いつか生まれ変わっても、君の隣を歩くから…―――――。





[ 第6話後書き ]