3.果てしなく
い1ミリ

いつもと同じ時間。
一緒に宿題をして、夕飯を食べて、他愛もない話をしながら笑う。
少なくとも俺は、そう考えていた。
若の想いを、何も分かっていなかった。
この夜も最後は一緒の布団で眠るだけだって、単純に信じてた。

一枚の、少し広い布団を敷く。
布団を整え枕を置いて、眠る準備を一通り。
「じゃ、電気消すよ?」
「……」
俺は立ち上がって、デスクスタンドを枕元に移す若に確認する。
「若?」
スイッチに触れて待てど、若からの返事は来ない。
若の方を向くと、若はどこか思い詰めて見えた。
俯いていたから、若の長い前髪と俺たちの身長差から表情までは窺えなかったけど。
「若…どうしたの?」
布団の上に座る若の正面、俺も腰を下ろした。
「……長太郎」
「うん?」
若の声は呟きみたいに小さかった。
「……キス、しないか……?」
「え?」
若が上げた顔は真剣だった。
いつもの若なら、耳まで真っ赤に赤面して視線を泳がせそうなのに。
真剣だという以外、全く感情の見えない瞳だった。
だからかな。
言葉を聞いた時に一瞬上昇した俺の体温も、スゥ…っと引いた。
「俺は…お前を信じているから……」
「若…」
俺は若のこの告白も、別の意味で捉えてしまっていた。
実はまだ、俺たちはキスをした事がなかった。
頬や額といった、口唇以外の箇所にしか経験が無かったんだ。
「良いの?こんな……ムードもシチュエーションも、いつもと変わりないのに……」
「構わない」
若が頷く。
「お前が…望むなら」
「…そんなの」
俺は若の二の腕に手を当てて、僅かばかり俺へと寄せた。
「望んでたよ、ずっと。ずぅ…っと望んでた」
「長太郎……」
俺は若の頬を手で包む。
俺の目を見つめる若に、俺は穏やかに微笑みかけた。
「若、瞳…閉じて」
「……」
俺の言う通りに、静かに若の瞳が閉じられる。
俺も顔を近づけながら瞳を閉じて、


そっと、俺たちは口唇を重ねた。


触れ合うだけの優しいキス。
それ以上は、俺には出来なかった。
でも俺は幸せだった。
若の口唇は柔らかくて温くて、俺の悩みを取り払ってくれそうだったから。
俺たちは互いの温度を確かめ合い、そうしてファーストキスを離した。
「…………」
「…………」
キスの後は二人無言で、少し照れ臭かった。
だけどそれは俺だけで、若はただ他の事を考えていて黙っていたにすぎない。
「な、何か照れるね。その…何だろう……」
俺の方だけ、バカみたいに浮かれてた。
「も、…もう…寝ちゃおっか」
「……いいや」
若は何故か、首を左右に振った。
「まだ…………寝たくない」
「!」
長い沈黙の後、若が俺の胸に寄りかかってきた。
俺の胸に顔を埋めて、俺のシャツを握って。
「わ、若……?」
俺は驚きに抱きしめもせず、腕は宙で固まっていた。
緊張しているのか若は震えていて、震える若はいつもより小さく思えた。
「……お前と…一つになりたい……」
微かな呟き。
きっと風一つ吹いただけでも聞き取れないに違いない。
若にはそれが精一杯だった。
「…………若」
俺は漸く、若の肩に手を置いた。
肩を押して、俺から若を起こす。
「ダメだよ、そんな冗談…」
「ぇ…」
「今ファーストキスしたばかりだもん。いくら俺でも引っ掛からないよ」
そして俺は、無理に笑う。
若の瞳が酷く動揺していた。それが声にも表れて、声まで震え出す。
「ち、違う…。冗談なんかじゃ……」
「それに」
知ってる。
若がそんな事、冗談なんかで言い出さないって。
けど俺は若の遮って、嘘の笑顔で続けるんだ。
「それに若、ちょっと前まで入院してたんだよ?」
「もう怪我など完治した。傷跡だって手術で消えてる」
「でも週一で病院に通ってるじゃないか。だから無理しちゃダメだよ」
「無理じゃない……っ」

俺のシャツを握り締め、若が俺に縋る。
縋り、訴え、同意を切望する瞳が俺を移す。
若は自分の震えで気づかないだろうけど、俺の手も実は震えてた。
「我儘言わないで」

出来ないよ。怖いんだ。

「そんな事したら若、体悪くしちゃうよ」
「俺が平気だと言っているんだ。だから……っ」
「…………」

怖いよ。
薬が若にどんな作用を及ぼすか分からないから。
負担をかけて、未知の効果が現れてしまったらどうしようって。
過去の動物実験データなんて信用出来ない。
たった数%DNAが違うだけで、ヒトと猿は遥かに異なる。
ヒトのDNAはとても複雑で、若は特に二次成長期に薬を投与されたんだ。
若を抱いて、それで薬が変化して、その変化が若を更に苦しめるものだったらどうしようって。

だから怖い。
若が好きだから、リスクなんて負えないよ。

「長太郎……?」
「ごめん…」

俺は若の肩から手を離す。
俺に縋る手を、目も合わせないまま解いた。
「ぁ……」
「もう寝よう」
「…………」
若が俯く。
長い前髪が、若の表情を隠す。
「若」
「…そうだな」
若が顔を上げて俺を見る。
その表情は、少し笑っていた。
「どうかしていた。すまなかったな、困らせて」
自嘲に似た微笑と悲しみに揺らいだ瞳。
そのどちらにも俺は気づけない。
俺が自覚しない内に、俺は『若の為』と若の覚悟を踏み躙る。
「すまなかった、本当に…」
「ううん。俺の方こそ、ごめん」
「……謝るなよ……」
無意識に零れた本音は、若自身の耳にさえ届かなかった。
若が立ち上がる。
「若?」
「トイレに行ってくる。先に寝ててくれ」
気丈に言い切って、若は俺を残して部屋を出て行った。

「若……」
扉が閉まる。すると、俺は若に触れた己の手を見た。
「俺だって…俺だって本当は……」
罪悪感と恐怖。
今の俺を占めるもの。
「俺は間違ってない…。若を想うなら、これで良いんだ……」
そう言い聞かせて自らの肩を、若の残り香を抱いた。

−−−

部屋を出た若の足は、トイレには向かっていなかった。
音を立てぬようと気をやりつつ、足早に道場へ向う。
ガラ…ッと戸を引き、静寂と暗闇の中へ若は身を入れた。
戸を閉め、若は倒れる様に戸に背を預けた。
「どうして…」
そこにいたのは、気丈に振舞った若じゃなかった。
「どうしてダメなんだ……」
戸に沿って、若が崩れ落ちる。
「長太郎ぉ……ッ」
溢れる感情に若は両手で顔を覆った。
だが肩を震わせても、涙は流さなかった。赤い瞳で帰れば、恋人を心配させる。
拒まれた訳ではないと分かっている。
自分を想ってくれたからだと信じている。それでも、
「どうして分かってくれないんだ…っ!!!?」
恋人を責めて、若はハッとした。
「何を言ってるんだ…俺は……」
手を顔から離す。
呆然と、若は気づく。
「『分かってくれない』?そんなの…言ってもないのに分かる訳ないじゃないか……」

こんなのは独り善がりだ。
長太郎だって辛そうに笑っていた。
俺が突然求めた所為で、アイツを変に苦しめた。
勝手に想いを押し付けて、何を責めてるんだ俺は。

「最低だ…。何もかも最低だ……」
頭を掻き毟って、若は己を苛んでいた。
「長太郎を試す様な真似をしたからだ。自業自得だ……」
キスも一つに繋がる事も、心から互いを求め合った時にと決めていたのに。
神聖な行為だと思っていたはずなのに。
「ただこの不安を打ち消す為だけに……長太郎を求めるなんて……っ」

そうだ。不安だった。
(長太郎が俺に触れてくれないから。俺に触れるのに躊躇うから)
知っていた。
彼が自分といて、無理な笑顔を見せる瞬間がある事を。
彼が自分といて、辛そうに自分を見つめる瞬間がある事を。
知ってしまったから不安になる。
変わってしまった関係を疑って、彼に不信を抱きそうになる。

抱きしめて欲しかった。
この不安が全て考えすぎだと、拭い去って欲しかった。
だから覚悟を決めて賭けに出た。
彼を誘い、彼に求めた。

「どうかしている…っ」
耐え切れず、涙が零れた。
ポタリポタリと、若の涙が床を濡らしていく。
(一言、自分が眠っている間に何があったかを問えば良いのに…)
全てが事故から目覚めた『あの日』に辿り着く事さえ、とうに気づいていた。
「そのたった一言も言えないくせに、どうかしている…俺は……っ!」

神聖な行為を賭けなどに用いるなんて。

「変わってしまったのは、俺の方だ…―――――ッ!」

こんなに傍にいるのに、どうして想いが伝わらないのだろう。
望めばいつでも触れ合えるのに、どうして孤独を感じるのだろう。
いつの間にか恋人に、

果てしなく遠い壁を感じてる―――――。

−−−−−

「何やってんだ、テメェ?」
跡部さんの静かな苛立ちが俺に向く。

俺と跡部さんは今、部室の一つにいた。
『部室』と言っても、ここは滅多に使用されない。
ここは練習試合で他校が訪れた時や正レギュラー用部室が改修などで使用不可になった時、臨時で解放される部屋。
普段は施錠されているし、誰も近づきもしない。
誰にも聞かれたくない話をするには、最も適した場所だと言えた。

「日吉に気づいて欲しいのか?」
「そんな事……」
「じゃあ日吉に愛想が尽きたのか?」
「!」
俺は慌てて首を左右に振る。
「違います!俺は若を大切に想ってます…!」
「なら何で避けてんだよ?」
「っ………」
言葉に詰まる。
俺は跡部さんの苛立ちに答えられない。
分からないんだ。
俺には『若を避けてる』という自覚が、ほとんど無かったから。
「忠告したはずだぜ?そんなんじゃ気づかれるってよ」
「…すみません…」
「俺に謝ってどうすんだよ」
冷ややかに跡部さんの視線は俺を責める。
「…………」
俺は何も返せずに、俯いた。
確かに最近はその自覚も、僅かながら芽生え始めていた。
だがそれは、若の態度や想いから気づいた訳じゃない。
一昨日得たばかりの、若のデータを見たからに他ならなかった。
そのデータは、間違いなく跡部さんも目を通しているはずだった。
「一緒にいんのが辛いなら別れろ。その方がずっと良い」
「……辛い訳じゃ…ありません……」
「だったら何だよ?」
「ただ…怖いんです」
「『怖い』?」
俺は頷いた。
「若に触れるのが…触れてしまうのが怖いんです」
「触れたくねぇのか?」
「逆です」

俺だって若に触れたい。
俺だって若と一つになりたい。

「でも出来ないんです…。だって俺ですよ?」
俺が若をヒトから変えてしまったのに、そんな俺が若に触れて良いのか。
触れ続けていたらその内歯止めが利かなくなって、きっと俺は若を壊してしまう。
「うなされてる若を見てたら、若をヒトでなくしてしまった事を思い知らされる。
 先輩だって見たでしょう?若の体、全部変わってしまった……」
最新のデータは、若のDNAが全て書き換わった事を示していた。
もう若が、首を切り落とすしか死ぬ術を持たなくなったと示していたんだ。それと、
「うなされてたのはヒト遺伝子が薬に抗ってたからだなんて…。
 こんなの他の動物じゃ出なかったのに…、若には表れて……」
だから余計に臆病になる。
まだデータに表れない変化が、いつか俺の手で目覚めてしまいそうで。
「若はあんなに苦しんで、なのに俺は何も出来なくて…っ。
 それも全て、俺が若を変えてしまったから!俺があんな事したから…!」
苦しむ若なんて見たくないのに、俺が苦しめている。
だから若を想う程、触れるのを躊躇う。
「うるせぇよ、テメェは」
「え…?」
「その程度の覚悟で、あの日俺に意見した訳じゃねぇだろ!」
跡部さんの苛立ちはもっともだった。
あの日言った言葉も覚悟も嘘じゃない。それは本当だ。
「でも時々考えるんです…」
揺らいでいた。
心から笑えない事実に、幸せよりも辛さばかりが重なる記憶に。
「俺があんな薬使わなければ、若は苦しまなかったのに!!!!」

「薬って……何の事だ?」

「!!」
唐突に聞こえた第三者の声に、俺たちは驚愕した。
「若……」
扉の傍に若が立っていた。
「何で……鍵…かかってるのに……」
若は室内に入り、扉を閉めた。
その表情は一切に感情を失っていた。
「合鍵……密かに作っておいたんだ……」
そう言って、若が鍵を顔の辺りまで掲げる。
「いけない事だと分かってはいた…。けど、この頃お前がここによく来てると知ったから……」
ポツリポツリと、若が静かな声で告げる。
まるで自分の行為を確認する様な、呟きにも似ていた。
「お前が時々…コートから消えて……ここに誰かといると、突き止めたから……。
 だから…誰と何を話しているのか気になって……でもお前が俺を『好き』だと言うのに嘘が無かったから……」
若が手を下ろすると、鍵が手から零れて床に落ちた。
高い金属音が、悲しく響く。
「最初は持ってるだけで良かったんだ…。これでいつでも、お前の下へ行けると…それだけで。
 だけどお前が俺に触れようとしないから……不安ばかり増えて……それで、今日」
若の、感情をどこかに置き忘れた瞳が、俺を映す。
「なぁ…お前は何を苦しんでいるんだ…?俺に何を…したんだ……?」
「それは…」
若が俺に歩み寄り、俺のすぐ正面に立つ。
俺を窺って、澄んだ瞳で俺の目を見つめてくる。
「それは……」
何か良い嘘はないだろうか。
適当な言い訳を俺は考えを巡らせる。
けど若の瞳はどんな嘘も通用させないって、そう語っていた。
思わず振り返った視線の先、跡部さんが頷く。
情けない。
こんな重大な事、何で一人で決められないんだろう。
「若。本当の事話すから……落ち着いて聞いて」
「……」
若は無言で、俺を見つめながら頷いた。

−−−

「ふざけるな!」
話し終えた時、若から返ってきたのは怒声だった。
「そんなデタラメを信じろと言うのか!?」
「本当だよ!若はあの日…本当は……死んでたはずで」
「嘘だ!どうしてよりにもよってそんな嘘を…っ!」
「嘘なんて言ってない!」
「嘘に決まってるだろ!!」
何を言っても、若は信じてくれなかった。
当然だ。
『貴方は本来死ぬはずの所を、奇跡の薬で助かりました』なんて言われて、信じる奴はまずいない。
だけど本当の事だから、俺は信じてもらうまで繰り返すしかない。
「そんな物語みたいな話、在り得る訳ないだろ!」
「信じられない気持ちは分かるけど、本当なんだ!若、俺を信じてよ!」
「だから騙されているんだ!お前が信じさせられてるだけなんだ!!」
冷静さを欠いて叫び、けど若はふと、俺の背後に気づく。
「そうだ、跡部部長……」
若が俺から跡部さんへと視線を移す。
「嘘ですよね、跡部部長!?長太郎の言っている事は全てデタラメですよね!?」
必死に、跡部さんが頷いてくれる事だけを願い、問い叫ぶ。
だが跡部さんは首を左右に振った。
「嘘じゃねぇよ」
「貴方ともあろう人が何を言っているんです!?」
否定されて、若は即座に返した。
「そんな事が在り得る訳ないでしょう!何で貴方まで…っ!」
期待を裏切られて、若は傷ついた。
「確かな証拠が存在し、俺もそれを見た」
「なら騙されているんです!」
「日吉」
「ッ……」
跡部さんに強く見据えられて、若が言葉を呑む。
「真実だ」
「嘘だ…」
若が弱々しく頭を振る。
「し、信じません、そんな事……」
カタ…。
思わず後ずさった若の背に、背後の扉が当たる。
「若…落ち着いて…」
「絶対に……絶対に」
俺の声も若には届かなかった。
震える声で、若がドアノブに手をかける。
「そんな言葉を俺は信じない!!」
「若ッ!」
勢い良く扉を押し開け、若は部室を飛び出していった。
バシィィィンッ!
「あっ……」
追おうとした俺の眼前、若の拒絶を体現して閉められた扉が立ち塞がる。
「…………」
「追えよ」
「でも」
若に何を言えば良いのか。
戸惑う俺の背に、跡部さんの言葉が飛んだ。
「いいから追えっつってんだろ!」
「……、はい!」
大きく彼に頷きを返し、俺は一気に部室を飛び出した。

(若…!)
部室の外はコートが広がる、遮蔽物が無い空間。
周囲を見渡せば、若の背中はすぐに見つかる。
「若!」
呼んで、俺は全速力で追いかける。
若との距離がぐんぐん近くなる。
「待って、若!」

――パシッ!

肩に伸ばした俺の手が、若に弾かれる。
「触るな…!」
その場で立ち止まった俺と違い、若は数歩先で足を止めて振り返る。
その瞳が俺を鋭く睨みつける。
「俺に触るな!!!!」
「若っ…」
立ち尽くす俺を残し、若はそれ以上何も言わず俺との距離を離していった。
それほど強い力で叩かれた訳じゃない。だけど。
「わか………」
だけど弾かれた手がズキズキと、酷く痛みを訴えていた。

−−−−−

(嘘だ。アイツの言っている事は何かの間違いだ)
帰宅した若は、自室で一人悩んでいた。
壁にもたれて座り、その表情は疲れていた。
(アイツは自分が間違ってる事も知らないだけだ。だから信じられるだけなんだ)
ケータイの電源も切り、家にかかってきた電話も相手しない。
若は部屋に閉じこもり、外界と自分とを切り離していた。
(嘘に決まっている。全て、嘘だ……)
深く息を吐く。若は頭に手を当てた。
(偽り以外の何だって言うんだ…。くそ……っ)
幾度も言い聞かせて断言しているのに、どうしても疑念が晴れない。
言葉は信じられない。だが恋人が嘘を言っているとは思えない。
そして何より跡部さんの存在が、若を惑わせていた。
(長太郎だけなら…アイツは時々バカ正直だから。…だが…)
あの『跡部 景吾』まで騙されるだろうか。
いつも彼は、何もかも全てを見透かしている様な顔をする。
事実、彼の目線にどれだけ心を丸裸にされた気分を味わわされたか。
(……そう言えば)
冷静に考えて思い出す。
(確かな証拠が在ると言ってたな…。そして、それを見たとも…)
複雑な思いが、若に生じる。
偽証だと信じる反面、それが真実だったらと心が揺れる。
(馬鹿馬鹿しい。何を恐れているんだ…)
自らの不安を非難しても、一向に心のもやは晴れない。
(…………)
悩み、そして若はケータイを手に取る。
「これしか…ない……」
躊躇いと戦いながら、電源を入れた。
(証拠を否定できれば、それで全て済む事なんだ)
ピッ♪という音を鳴らし、液晶に『呼出中』の文字を表示させる。
「……すみません、日吉です」
ケータイの奥から聞こえる声に、やはり相手は何もかも見抜いていたのだと思い知る。
「ええ…、お願いします……」
やり取りを終え、ケータイを切る。
(これで良いんだ。…これで……)
液晶に残る通話時間は、若の長い躊躇を皮肉った様に僅かだった。

−−−

翌日、若は普段通りに登校した。
若は学校を休むかもしれないと思っていた俺は、少しだけ安堵した。
もちろん若は俺を見ないし、口も聞いてくれようとはしない。
だから俺も、なるべく若を意識しないようにしてた。
今はお互い時間を置いて、一人で考えた方が正解なんだと思い込んで。

けどそんなのは建前で、ただ怖かっただけなんだ。
また若に拒絶されたらどうしようって。
本当は何度拒絶されたって、強引に若を捕まえれば良かったのに。
恐れるばかりで俺は若の思い、何も理解しようとしてなかった。

−−−−−

放課後、若は跡部さんと共にいた。
「本当に良いんだな?」
「ええ。別に長太郎は俺の保護者じゃないでしょう?」
「……そうだな」
二人は薬の研究施設を訪れていた。
事故の後、跡部さんが国内に作らせた施設で、あの薬だけを様々な角度から研究する為の場所。
若のデータも、病院からすぐここへ流れていた。
長い廊下を渡り、跡部さんが一つの扉を開く。
中からは動物の鳴き声が聞こえた。
「…………」
声に、若が形容し難い感情を抱く。
何処かから警告音が響く様な、そんな思いに包まれていく。
「入れよ」
「あ、…はい」
促されて、若は不安を振り払うと前に進んだ。
室内に入ると一層動物の鳴き声が耳につく。
いくつかのケースの中には、数種類の動物が数匹ずつ納められていた。
「……」
まだ通路の途中。若はぼんやりと動物達を眺めていた。
「…選べ」
「え?」
唐突な跡部さんの声に、若が足を止める。
そこはまだ部屋の途中で、置くには扉も見えている。
「好きな種類を二匹選べ」
「…何故ですか?」
「後で分かる」
「…………」
言うと、跡部さんは若から視線を外す。
訳が分からず、若は今度は意識して檻を見た。
「…ぁ」
その時不意に、一匹のウサギと目が合った。首に『7』のタグが見える。
人懐っこい性格なのか、若の下へ近づいてくる。
ガラスに阻まれてじゃれ付く事は出来ないが、ウサギはカリカリとガラスを掻いた。
仕種に若は少し気持ちを解されて、表情を柔らかくする。
「…一匹はソイツで良いのか?」
「あ、……で、ではお願いします」
「ならもう一匹もウサギから選べよ?」
「……はい」
彼は何故、自分にこんな事をさせるんだろう。
そう思いながら、もう一匹は適当に『5』のウサギを選んだ。

奥の部屋は、ガラスで二つに分けられた構造をしていた。
若たちのいる片側は多種多様な計器や機械が設置され、もう片側は先ほど見たケースをただ広くした様な空間。
恐らく動物実験用の部屋なのだろう、と若は思った。
「日吉」
「はい」
「これが何か分かるか?」
跡部さんが若に差し出したのは、小さな瓶。
「これがお前に使用された薬だ」
「!」
受け取って、若は瓶を眺めた。
瓶の中で数量の粉がサラサラ揺れる。
「これが…証拠だとでも?」
「そんな訳ねぇだろ。……用意できたみてぇだな」
「?」
ガラスの方を跡部さんが見やる。
視線の先を、若も追って顔を向けた。
「あっ」
思わず若は声を発する。
ガラスの向こうに、先ほど自分が選んだ『7』と『5』のウサギがいたからだ。
「よく見てろ。今から見せてやる」
「え……?」
「今から一匹に、その薬を投与する」
跡部さんの言う通り、ガラスの奥では二匹のウサギが仰向けに押さえられる。
「本当は少量で良いんだけどな……時間がねぇから全身行き渡るまで多めに打つぜ?」
確認を求められても、これから起こる事を理解できていない若には答え様がない。
「どっちに打つ?」
「ぇ、あ…『7』、に」
咄嗟に、目に付いた方を口にしてしまう。
「分かった」
「あっ……」
ただ彼の返事に、薬を投与されるのは目が合ったあのウサギだと、それ位は認識できた。

数分後。一匹のウサギから、注射針が抜かれる。
「これが一体何だと言うんですか?」
「これからが本番だ」
「ッ!」
若が瞳を丸くする。
鋭いメスが、二匹のウサギの左胸を切り裂いていた。
「な、何を…!?」
「既に痛覚は焼き切られてる。痛みを感じる事はない」
確かにウサギに暴れる様子は無い。
押さえつけられているのが嫌で、多少手足をバタつかせている位だ。
「これから心臓を取り出す」
「な…っ!?そ、そんな事をしたら死んでしまうじゃないですか!」
「普通なら、な」
訴える若に、跡部さんは至極冷静に返す。
「最後まで目を逸らすな」
「ッ……」
悲痛な面持ちで、若はウサギたちに目を戻す。
人の手には、赫い塊が握られていた。
「く……」
自分が選んでしまった為がに、殺してしまった。
若の胸を混乱よりも罪悪感が占めた。
奥では無意味な、切り裂いた傷の縫合が医療ホッチキスで行われていく。
この光景の何が証拠なのか、益々若は分からなくなる。
そして人が二匹のウサギから離れた時、
「っ!!!?」
若は自分の目が信じられなかった。
「そ、そんな……」
心臓を取られたはずのウサギが、一匹動き出していた。
それは薬を投与された『7』のウサギ。
耳を動かし、ブルブルと体を揺すっていた。
投与されなかったもう一匹は、ピクリとも動かないのに。
「あれがお前だ」
「え……?」
呆然となりながら、若は跡部さんに聞き返す。
跡部さんは若の目を真っ直ぐに見て、はっきりと答える。
「薬を投与されたら、殺されたって死ななくなる」
「…………」
「お前も見てたろ?された奴とされなかった奴の結果を」
「……嘘だ」
タタタ…ッと血臭のする空間を駆け回る足を聞きながら、若が呟く。
「何かのトリックなんでしょう?本当は心臓を取られてなんていないんでしょう?」
縋る様な、祈る様な若の声。
その声は昨日部室で、やはり跡部さんに尋ねた時の声と同質だった。
「あの中からウサギを選び、あの二匹を選んだのはお前だ。他に選択肢はいくらでもあっただろ」
「ならここへ連れてくる間に、何かしたんじゃないんですか!?」
跡部さんの声も、否定した時と同じ。
「連れてくるのにかかったのは一分弱だ。その間に、どんな細工が出来る?」
「それは…っ…!」
若は懸命に、反論を探す。
予め似たウサギを用意していたとしても、やはり若がどれを選ぶか分からない以上は現実性が低い。
そうするなら、僅かな数しか用意しないはずだ。
多くの中からたった二匹を、自分に選ばせる真似はしない。
それに何より、
「どちらに薬を打つかを決めたのも、お前自身だ」
「それは……」
若が言葉に詰まる。

全て目の前で行われた事。
切り裂かれる左胸も抜き取られる心臓も、この目で見ていた。
二匹の違いが『薬』でしかない事も、最後まで見て知っていた。
もしかしたら高等なトリックがやはり存在するのかもしれないと何度思おうと、
全身に広がる『何か』がその度に否定できない事を伝えてくる。

分かりたく、ないけれど。

「これが現実だ」
「違う…っ」
「嘘でここまでする必要がねぇだろ」
言い聞かせて、強く言う。
跡部さんは感情を殺していた。
本当は彼だって、現実を突きつけるのは辛かったんだと思う。
でもこれ以上隠し続けるのは、その方がもっと残酷だから。
「現実だ」
「…………」
言葉が若の全てへ浸透していく。
跡部さんの瞳が真実を告げている事を、若は確かに感じていた。
「…あのウサギが……俺…………?」
落ちた視線を上げる。
「…あっ…」
ウサギを見た瞬間、若の表情は一変した。
『7』のウサギが部屋中を駆け回っていたから。
戻った自由を喜ぶ様に、元気に跳ね回っていたから。
全身を自らの血に塗れさせながら、仲間の死骸と戯れて。
「そんな……」
それは『一命を取り留めた』では済まない、異様な光景。

「あ…あぁ……」
目の前の光景から逃れようとでもしたのか、若の足が一歩、二歩と後ろへ下がる。
だがすぐに壁が、若の行く手を阻む。
壁に張り付いて、若は顔を蒼白させて震えた。
認めないと――無意識になんだろう――顔が小さく振られている。
しかしどんなに意識から排除しようとしても、若の瞳はずっとウサギから離れない。
若自身の意思を体が無視して、離せなくなっていた。

「嫌だ……」
若の呼吸が荒れていく。
「嫌だ…そんなの……」
祈りにも似た悲鳴が、若から漏れる。
「あ――――!」
若の表情が凍りつく。
ウサギが若の姿に気づいたのか、駆け寄ろうとしていた。
目の前にいるのは、もう一人の自分。
そうウサギにも告げられた錯覚が、若を襲う。
「俺は…俺はそんな…」
ガラスを掻く音が、若を追い詰める。
カリカリと微かな音が脳に響く。爪の跡が赫くガラスを染める。
「嫌だ…嫌だ来るな…ッ…!」
両耳を抑え、若は脅えていた。
変わらずウサギは若を求め、その姿に若は更に恐怖した。
「来るな、嫌だッ!違う…ッ、嫌だ長太郎っ、俺はっ……俺、…は、、…―――――」

バタ…ッッ!

若の体が床に転がる。
かかる重圧に耐え切れず、若は防衛から意識を手放す他なかった。

−−−−−

若が目を覚ました時、そこは自分の部屋だった。
気絶した若は『軽い貧血』を起こしたと、家に送り届けられていた。
布団の中で天井を見つめていた若が、力無く体を起こす。
「…………」
若は己の手を眺め、施設で目にした光景を思い出す。
夢であれば良いと願うのに、胸の痛みが現実だと訴えてくる。
「何で…こんな事……」
呟いて、若は机の奥へと顔をやった。
奥に立つ、一つのフォトスタンドを眺める。
シャッターに切り取られて止まった時間が、今はひどく羨ましい。
「長太郎…」
見続けられなくて、若が写真から視線を外す。
若は膝を立て、そこにもたれた。
膝の上で組んだ腕に、顔を埋める。
(信じたくない…。だが否定しても何にもならない……)
こんな現実ってあるだろうか。
沈みゆく心の中で思う。
(俺はヒトじゃない。死ぬべきだった人間)
胸はとても痛むのに、涙は出なかった。
感情が麻痺してしまったのかもしれない。
(やはり長太郎は変わったんじゃなかった…)
顔を上げる。
(俺が、)
目に映る己の体が、見知らぬ他人にすら思えて。

「俺が、長太郎を変えてしまった……」

涙を流せない事がどれほど辛い事か、若は初めて知った。


[ 第2話第4話 ]