聖夜。若は一人、バーでグラスを傾けていた。
待ち人は来ない。連絡も無い。
(もう終わりだな)
このところ距離を感じていたし、きっと潮時なのだろう。
若は恋人から貰った指輪を外すと、それをグラスに落とした。
シュワ…と泡を纏いながら指輪が底へ沈んでいく。
立ち去ろうとしたところで、
「ねぇ、一人?」
若は声をかけられた。
声の方を向けば、そこには見知らぬ男が立っていた。
「良かったら俺と飲まない?」
「そうだな……」
一分前までなら断ったところだが、今の自分はフリーだ。
若は男の全身を眺め、品定めする。
左利きの男。
小柄だが見目は良い。
怪しい所もなく、聖夜に過ごす相手としては申し分ない。
若は頷き、男の誘いを受け入れた。
「良いぞ。俺は日吉若。お前は?」
「越前リョーマ」
リョーマは爽やかに笑い、若の隣に腰を下ろした。

リョーマは非常に感じの良い男だった。
会話は楽しく、若への態度は丁寧だ。
若はすぐにリョーマを気に入り、リョーマもまた自分を好いている事を感じ取った。
若はリョーマからの誘いを幸運に思う。
僅かな時間で二人は意気投合していた。

「ねぇ、ワカシさん」
「ん?」
二杯目のグラスを空にした所でリョーマが尋ねてくる。
「俺の家へ来ない?続きは俺の家でしようよ」
「お前の家か……」
若がしばし考える。
出会ったばかりの男の家への招待なんて、普段なら即断りを入れる誘いだ。
だがリョーマを気に入っていた事、今夜が聖夜である事、
そしてアルコールの勢いもあってか、若はこれも了承した。
「分かった。今夜はよろしくな、リョーマ」
「はい」
リョーマから左手が差し出される。
若は何の躊躇いもなくその手を取った。

−−−

リョーマの家はバーからさほど遠くない場所にあった。
庭付き一戸建ての、シンプルながらセンスの良い外装を持つ家。
リョーマはここに一人で住んでいるとの事だ。
「凄い家だな…」
「大した事ないよ。さ、どうぞ」
若は広い玄関を通り、広間へと案内される。
ドアを開け、先に入るよう促すリョーマに従い、先に足を踏み入れる。
真っ暗な室内を進むとドアの閉じる音がした。
進んでいく内に、若は足に奇妙な感触を感じた。
(何だ?)
冷たくて硬い。
家具かとも思ったが、それにしては高さがなく配置がおかしい。
「リョーマ、これ…あっ」
振り返ろうとすると、今度は肩に何かが当たる。
「何?」
何かがぶら下がっている様だ。
揺れるそれが若の肩にもう一度当たった。
初めて、言い知れぬ不安が若に芽生える。
部屋は相変わらず暗い。
暗闇が一層若の不安を増長させる。
「リョーマ、早く明かりを……」
騒ぎ出す心を落ち着けようと、若がリョーマに明かりを求める。
明るくなれば心は落ち着き、この不安が全て勘違いだったと笑う事が出来る。
若はそうに違いないと祈る。
「リョーマ」
♪〜
「えっ?」
♪〜♪♪〜
若の願いとは他所に、部屋には音楽が響き渡る。
それは若が今まで耳にした事のない音楽だった。
「何……?」
若の声が震える。
まるで体中を蟲が這いずり回るような、体中を蟲に食われていくような、
不快という不快を心の底から掻き立ててくる気味の悪さ。
若は無意識に震え出す手で耳を塞ぎ、後ずさる。
肩と背にまた何かが当たる。
恐い。
「明かりを早く付けてくれ!」
湧き上がる恐怖に堪えかねて若が叫ぶ。
恐い。恐い恐い。
暗闇から無数の手が伸び、全身を掴まれているようだ。
「リョーマ!」
「何を恐がってるの?」
暗闇の向こうからリョーマの楽しそうな声が聞こえる。
自分とは別世界にいるかの様な弾む声。
その声色がまた若の恐怖を掻き立てる。
「早く……明かりを」
「もう、せっかちだなぁ」
カチリ。
音の後、頭上のシャンデリアが二、三度点滅を繰りしてから点灯する。
暗闇に光がもたらされ、視界が鮮明になる。
けれどそれは恐怖の終わりではなく、真の恐怖の始まりだった。
「わぁぁっ!」
若が悲鳴を上げる。
リョーマは上機嫌に笑っている。
「なっ、何だこれっ!?何っ!?」
若は酷く狼狽した。周囲を見回す。
どこ見ても視界には同じ物が入る。
人形だ。
部屋中に大小の人形が吊るされている。
服を裂かれたもの。手足をもがれたもの。頭を砕かれたもの。赤い液体をかけられたもの。
天上からいくつもの人形が首を吊るされ、そして床に散らばっている。
若の体に当たったものは正体はこれだったのだ。
「こ、こんな……」
「俺ねぇ、どうも一目惚れしちゃったみたいなんだ」
困惑する若を他所にリョーマが愛を囁く。
「愛してるよ、ワカシさん」
若の目をしっかりと捉え、魂からの愛を捧げる。
笑顔を浮かべたまま、リョーマが若に近づいてくる。
「ひっ…」
本能が若に危険を告げる。
危険だ。
恐い恐い恐い恐い。恐い。
早く逃げなくては。早く。
そう思うのに、体がすくんで動かない。
恐い。嫌だ。恐い。恐い。
逃げろ。早くここから逃げろ。誰か。
「来るなっ…」
若の全身が震える。
リョーマとの距離が縮んでいく。
目は狂気染みていた。
目だってちゃんと笑っている。
笑っている事は確かなのに、リョーマのそれは恐怖しか呼び起こさない。
こんな恐ろしい笑顔を若は見た事がない。
こんなに恐ろしい幸せそうな笑顔を、若は見た事がない。
「フフッ」
「あ……」
遂に若の正面にリョーマが達する。
若の目に涙が滲む。動悸が上がる。息が苦しい。
怯える若の表情さえ愛しそうに微笑み、リョーマが左手を差し出す。
「俺とダンスを踊ろうよ」
「嫌だぁぁあぁっ!」
リョーマに手を触れられた途端、若の体は電流が走った様に動き出す。
自由を取り戻した体で、若はリョーマの手を振り払う。
「どうしたの、ワカシさん?」
「嫌だ、来るな!」
「照れてるの?フフッ」
幸せそうにリョーマが笑う。
尚も若へと手が伸びてくる。
「止めろ、来るな!どうして、こんなっ…!?」
問いはリョーマだけでなく若自身にも向けられていた。
聖なる夜にどうして。
恋人にふられて、こんな男に選ばれて。
自分が何をしたと言うのか。
「ワカシさ〜ん」
甘えた声でリョーマが近寄る。
若の体は自由を取り戻したとは言え、動きは鈍い。
震えが止まらない。
「来るなぁっ!」
若は傍にあった人形を手で押し、リョーマへと食らわす。
リョーマは軽く交わし、変わらぬ笑顔を向けてくる。
「ワカシさんはお茶目な人だね。人形遊びが好き?」
「止めろ、来るな!」
「でもダンスが先。曲が終わっちゃうよ。ね、ワカシさん」
「来るなっ……」
若は後ろへと逃れていく。
足を下げる毎に踵にコツコツと人形が当たる。
若は手当たり次第人形をリョーマへと投げた。
「ワカシさん、もう〜焦らすの上手いんだから」
「来ないでくれ……」
カタン。
「!」
背中に触れた硬さに若が顔を引きつらせる。
リョーマはクスと笑った。
「行き止まり」
「あ、ああ……」
若の背後には窓ガラスが広がっていた。
若は鍵に手をやったが、そこは針金によって固く縛られ、
怯える若の力では到底外せるものではなかった。
一旦は開いた距離が再び縮まってくる。
今度手を差し伸べられたら、若はもう捕まる。
逃げられない。
若は背にガラスがあっても懸命に後ずさろうとする。
だが進めない。逃げられない。恐い。
恐い。
恐い。
恐い。
恐い。
恐い。
嫌だ。
恐い。
恐い。
逃げたい。出来ない。
逃げたい。恐い。
リョーマが近づいてくる。
「ワカシさん、早くダンスを踊ろうよ」
「嫌だっ……嫌だぁぁあぁっ!!!!」
「おっと」
半狂乱になって押した人形も容易くリョーマにかわされる。
若は全ての手立てを失う。
もう駄目なのか。
若が絶望した時、目前から人形が迫ってくる。押した人形が戻ってきた。
「わぁっ!」
咄嗟に若がしゃがむ。
人形は若の頭を掠める。

ガシャァァァァン!!!!

「うっ……」
人形が窓へと当たり、ガラスを砕く。
見上げると窓には大きな穴が出来ていた。
「うあぁっ」
これがきっと最後の希望。
若は一目散にそこを潜った。
「待って!」
裸足なのも構わない。ガラスの破片も厭わない。
若は恐怖に固まる足に鞭を打つ。
必死に足を前へ出して全力で逃げる。
「ワカシさん、待って!俺とダンスを、」
追おうとしたリョーマの足に人形が引っ掛かる。
「くそっ!」
足を取られ、バランスを崩し、それでも尚リョーマが若へと手を伸ばす。
「ワカシさん――っ!」
倒れながらも若を呼び、求める。
体が窓へと崩れる。
そこには凶器と化したガラスの刃が生えていた。
「――ぎゃあぁああっ!!!!」
「ひぃっ…!」
背後から響く悲鳴に耳を塞ぎ、若は真夜中の道路を駆けていった。
悪夢の聖夜が漸く終わった。
若は心からそれを願った。

−−−−−

数年後。
若は自宅のクリスマスツリーを飾り付けていた。
「ちょっと気が早いよ」
「良いじゃないか。一応、もう十二月だろ?」
「それもそうだね」
後ろから長太郎が若を抱き締める。
若は幸せそうに長太郎の腕を抱いた。
左手の薬指には結婚指輪が輝いている。
長太郎の腕の中で体を回し、彼と向き合う。
愛する夫。
若は長太郎と見つめ合うと、そっと口付けを交わした。
「そろそろ昼食の準備をするか。テーブル、拭いておいてくれ」
「お安い御用だよ、若」
長太郎の腕から出ると、若は小さく笑顔を返してキッチンへと向かった。
背後では長太郎がテーブルを拭き始める。
若は幸せな結婚生活を楽しんでいた。
シチュー鍋に火をつけて、サラダをサラダボウルに盛る。
すぐに長太郎がやってきて、盛り付けの終わった皿をテーブルへと運んでくれる。
長太郎の優しさが若は大好きだった。
いつだって自分を想ってくれる。
いつだって自分に笑いかけてくれる。
若は長太郎に愛される自分を幸福に思い、いつもそれ以上の愛を長太郎へ返した。
クリスマスを再び楽しめるようになったのは、この夫の存在あってこそ。
「若、牛乳にする?それともお茶?」
「今日は牛乳にする」
「はーい」
シチューを更に盛りながら、若は幸せを噛み締めた。
「出来たぞ、長太郎」
「こっちも用意終わってるよ」
「残すなよ?」
テーブルに皿を置きながら冗談めかせば、長太郎も同様の笑顔を返してくる。
「俺が若のご飯残した事、ある?」
「今日がそうかもしれないだろ?」
「まさか」
若が長太郎と向かい合って座る。
二人で笑顔を交わして『いただきます』をし、スプーンを握る。
(まぁまぁかな……)
自身の作ったシチューを口にして若が評価を下す。
洋食はあまり得意ではいのだが、まずまずの出来だ。
「どうだ、長太……」
感想を求めようとして正面を見た時、若はふとある事に気づく。
「うん、美味しいよ。……って、どうしたの、若?」
「……お前、何でスプーン、左手に持ってるんだ?」
右利きである長太郎が、左手にスプーンを持っていたのだ。
なのにさして不自由している様子もなく、器用にスプーンを操っている。
若に指摘されて長太郎が己の左手を見る。
「あれ?おかしいな」
長太郎は不思議そうに首を傾げた。
本人にも理由が分からないらしく、長太郎は何でだろう…と呟きながらスプーンを右手に持ち替えた。
「ちょっとぼーっとしてたみたい。ごめんね、心配かけて」
「……ステーキじゃないんだから、止めろよな」
「ごめん」
そう言って長太郎が浮かべた笑顔はいつものもので、若は安心して息を吐いた。
きっと仕事で疲れているんだ。
若はそう納得して、長太郎が美味しそうに食べる姿を見つめた。

だが、その安堵は長くは続かなかった。

この頃から気が付くと、長太郎は左手に何かを持つようになっていた。
ペン・箸・ケータイ・歯ブラシ・ハサミ……等々。
以前は右手で持っていた物を左手で持ち、生来左利きだったかの如く振舞う。
しかもそのどれもが無意識下での行動だ。
若が指摘する度に長太郎は首を傾げ、右手に持ち変える。
右利きだった者が、無意識の内に左利きに変わるなんて在り得るのだろうか。
それに時折、笑顔が長太郎のものとは違う気がする。
時折、訳もなく背筋が凍る瞬間がある。
「長太郎……」
夫はどうしてしまったのだろう。
リビングで若が頬杖を付く。
長太郎は夜まで仕事でいない。
「…………」
若はチカチカと輝くツリーに目を向けた。
今日はクリスマス・イブだ。
「クリスマス・イブ……」
言い知れぬ不安が若を包む。
左利きとクリスマス・イブ。
ただそれだけなのに、だがただそれだけが、若の中の恐怖を呼び覚ます。
何か起きるのではないか。
何かが起こされるのではないか。――あの男によって。
「嫌だ!」
男の笑顔が脳裏を過ぎった瞬間、若は頭を抱えた。
手が震える。
「落ち着け、落ち着くんだ。あれから何年経ったと思ってる……」
今まで何も無かった。
今年のクリスマスだってきっとそうだ。無事に過ごせる。
「長太郎…」
不安に突き動かされて、若は席を立った。
長太郎は夜まで帰ってこない。
唾を飲み込み拳を握り、若は悪夢の場所へ赴く事を決めた。

−−−

「……」
表情に不安と恐怖を宿し、若は男の家の前に立っていた。
数年の時が経つのに、家はちっとも変わっていない。
この敷地の中だけ、時が止まっている様だ。
中に男はいるだろうか。
出くわして、中に引きずり込まれたらどうしよう。
だが男が今どうしているのか、若は知らなければならない。
長太郎の身に起きた異変が、男とは何の関係もない事も確めねばならない。
だと言うのに、怯える体が動かない。一向に言う事を聞かない。
忘れたはずのトラウマが若を縛り付けていた。
(どうしたら……)
「あのー」
「!」
突如、背後からかけられた声に若が硬直する。
ゆっくりと振り向くと、買い物袋を下げた中年の女性が立っていた。
どうもこの近所の主婦らしい。
あの男ではなかった事に心を落ち着け、若が体をそちらへ向ける。
「はい、何でしょうか」
「貴方、ここの家の人の知り合い?」
「え、あ……」
どう返事すべきか若が躊躇う。
もしかしたら男の現在を知っているかもしれない。
だとすれば、ここは認めておいた方が得策だ。
「はい。その、高校の時の同級生なんです。近所まで来たものですから」
「そう。でもここの人、ここ何年も入院してるのよ」
「入院……ですか?」
「確かクリスマスの朝だったかしら。救急車で運ばれていって、それっきりなのよ」
「クリスマスの朝……?」
若は確信を得た。
あの夜だ。あの悲鳴がそうだ。
「……分かりました。有難うございます」
若は主婦に頭を下げると、すぐに男が運ばれたという病院へ向かった。
男は生きているのか。死んでいるのか。
分からないが、調べなければならない。
長太郎との幸せを守る為に。



ピコン、ピコン、ピコン……。
「…………」
透明なガラスに手を寄せて、若が病室内を見つめる。
そこではあの男が眠っていた。
チューブに繋がれて眠る、意識の無いあの男。
あの日からずっと眠り続けているらしい。
生きてはいたが、これでは死んでいるのと同じだ。
手の出し様がない。
(考え過ぎか…。そうだよな。俺が過敏になっていただけだ)
男には悪いが、若は心から安堵した。
全ては思い込みの所為なのだ。
過度の恐怖から、きっと些細な事でも大事に見えていたに違いない。
これで安心して長太郎とイブを過ごせる。
(家へ帰ろう)
若はほっと笑みを浮かべた。
心が軽い。
病院を後にして、若は真っ直ぐに自宅を目指した。
明らむ空を見上げ、晴れやかな心地で帰路を歩く。
(早く夕食の準備をしないとな。ご馳走を作って、長太郎の帰りとケーキを待って、それから……)
長太郎とのイブを想像し、上機嫌に笑う。
ずっと一緒にいよう。ずっと傍にいてもらおう。
用意したプレゼントを、長太郎は気に入ってくれるだろうか。
早く会いたい。
自然と足が速くなる。
(長太郎――)

−−−

自宅に着いた若は軽い足取りで門をくぐり、鞄から鍵を取り出す。
鍵穴に差し入れ、回そうとして違和に気づく。
「開いてる…」
ドアを引けば、あっさりと開く。
中に誰かいる。
隙間から覗き見れば、見慣れた靴が脱いであった。
何だと躊躇わずドアを開け、玄関で靴を脱ぐ。
「ただいま」
リビングの戸を開けると、最も待ち望んだ背中が見えた。
若の顔が綻ぶ。
「長太郎、帰ってきていたんだな」
嬉しそうに若が歩み寄る。
長太郎がこちらへと振り返ってくる。
「お帰りなさい」
「!」
ガシャ――と若の手から鞄が落ちる。
中身が床に散らばる。
振り向いた長太郎を見て、若が硬直する。
そこにいたのは長太郎ではない。
姿こそ長太郎だが、長太郎ではない『何か』だ。
そう直感し、若は全身を這いずる悪寒を感じた。
以前にも感じた覚えのある悪寒と恐怖。
狂気を宿した目が若を見つめてくる。
男は若から片時も目を離さず、若へと一歩一歩寄っていく。
「ちょ…たろ……」
「待ってたよ」
にこりと長太郎が微笑む。
差し出される左手。
愛する夫にあの男が重なる。
「さぁ、行こう」
「あ、あぁ……」
若は恐怖に顔を歪ませ、弱々しく首を振った。
体が動かない。
長太郎の左手が伸び、若の手首を掴む。
「ねぇ、ワカシさん」
「嘘だ……」
夫じゃない。長太郎じゃない。あの男――越前リョーマだ。
若は惑い、激しく首を振る。
これが夢なら早く覚めろ!心からそう願う。
「ほら、ワカシさん。来て」
「嫌だっ!」
引き寄せられて若は叫んだ。
芯から拒絶を叫ぶ。
「やだ、放せっ!触るなぁっ!」
「やっと捕まえた」
「嫌だっ!放せ!放してっ!」
今すぐ逃げ出したいのに、若の体は恐怖に絡み取られて動かない。
元々長太郎が並以上の腕力の持ち主だった事もあるのか、容易く抱き締められてしまう。
「長太郎、目を覚ましてくれ!」
「大丈夫だよ、ワカシさん。でも」
「うっ――」
腹に痛みを感じ、若が小さくうめく。
「ぁ…ぁあ……」
若の体が長太郎――今はリョーマの胸に沈む。
リョーマは若を愛しそうに抱き支える。
「少し眠っててね、ワカシさん」

−−−−−

♪〜
(…………)
♪〜♪♪〜
(………?)
耳に纏わりつく不快な音に、若の意識を強引に呼び覚ます。
嫌な音色だ。早く止めたい。
「う……」
ピクと若の指先が動く。
ゆっくりと若の目が開いていく。
「う、ううん……」
意識の覚醒と共に、音楽も鮮明に届いてくる。
不気味な音色。あらゆる不快を掻き立てる音色。
聞き覚えのある、恐怖の音色。
「はっ!」
はっきりと覚醒し、若が体を起こす。
自らの置かれている状況を見て、若は愕然とした。
「そんな……」
天上から首を吊るされた無数の人形。
床には破片が散らばっている。
気味の悪い音楽。気味の悪い内装。そして、
「おはよう、ワカシさん」
自分を縛る狂気の微笑み。
あの夜にタイムスリップした様だ。
ただ違うのは、窓が初めから割れている事。
目の前にいるのが夫の体だという事だ。
若は絶望に泣きたくなった。
対してリョーマは上機嫌に笑っていた。
「さぁ、立って」
座り込んだままの若へと左手を差し伸べる。
「俺とダンスを踊ろうよ」
「い、嫌……」
恐怖からか立ち上がれない。
若は腰を引きずる様に手で後さずる。
「ワカシさん?」
やがて体を返し、四足で獣の様に逃げる。
散らばる人形を掻き分けながら、一目散に窓を目指す。
しかし、
「駄目だよ、ワカシさん」
あの夜の記憶を持つのはリョーマも同じ。
リョーマは追いかけっこを楽しみ、若を見つめながら窓へと先回りする。
速度の差は明白だ。
若が何十回と手を前に出して進んだ距離を、リョーマは僅か数歩で越える。
「ほら、こっちだよ。ワカシさん」
「うぅ……」
若の正面に立ち、赤子のハイハイを待つ親の様に両手を差し出す。
若は咄嗟にガラスの破片を握り、リョーマへと向ける。
切っ先が激しく揺れる。
痙攣に近い程、若は恐怖に震えていた。
「く、来るな…。来たら刺す……」
体以上に震える声で牽制する。
けれど精一杯の強がりに過ぎない。
長太郎の体を傷つけたはくない。
例え今はリョーマに支配された体でも、それが若の本音だ。
リョーマがその事に気づいているのかどうかは知らないが、彼は顔色一つ変えていない。
愛しそうに若を見つめ続ける。
「駄目だよ、そんな物。ワカシさんの手が傷ついちゃう」
「本当に刺すぞ…!」
右手でガラスを突きつけ、左手と足で後退する。
「駄目だって。ね、ワカシさん」
「来るなっ……」
右手を大きく振るがリョーマは気にも留めない。
リョーマが左手を伸ばす。
「ワカシさん」
「来るな!」
ビッ――。ポタタッ……。
「あっ!」
床に血が滴る。
声を上げたのは若だった。
ガラスがリョーマの左手を裂き、血を滴らせていた。
初めて、リョーマが若から左手へと視線を移動させる。
横に裂けた傷から血が流れ、その左腕を朱に染めていく。
「俺…俺、こんな……」
カツンとガラスが若の手から滑り落ちる。
故意でないとは言え、傷つけたのは愛する長太郎の体だ。
「長太郎……」
やはり若に長太郎の体を傷つける事は出来ない。
「長太郎ぉっ……」
どうしようも出来ずに若は泣いた。
相変わらず体は重く、言う事を聞いてくれそうにない。
長太郎を傷つける事は出来ない。逃げ出す事も出来ない。
どれほど祈るように見つめても、目の前の男は『鳳長太郎』に戻らない。
大人しくなった若へとリョーマが手を差し伸べる。
赤い手が若を目指す。
ポタッポタッと床に血の点線が刻まれていく。
「ああっ……」
もう駄目だ。逃げられない。
諦め、若が目を閉じる。
ポタッ。ポタッ。
耳に血の音が近づいてくる。
ポタッ。
ポタッ。
ポタッ。

「ぅっ――」
若は覚悟を決めた。




だが。
「……?」
血音の接近が止まる。
目前まで迫っていたはずの手は、一向に若に触れてこなかった。
どうしたのかと若が恐る恐る目を開く。
「あ……」
若が息を呑む。
そこには、二人の男がいた。
正確には二人の男の意志だ。
若へと伸ばされた左手を、右手が必死に掴んでいた。
「若、早く逃げて!」
「長太郎!」
それは間違いなく長太郎の声だった。
まだリョーマに完全には支配されていない長太郎が、若を救おうと抗っていた。
「長太郎…」
若は色濃く恐怖が刻まれた顔で笑った。
顔の筋が強張っていて上手くは笑えなかったけれど、
もう会えないと思っていた長太郎との再会に歓喜を覚える。
このまま長太郎が戻ってきてくれれば、また二人で幸せに暮らせる。幸せな生活が帰ってくる。
「長太郎ぉっ」
若は一片の希望に縋ろうとする。
長太郎の左手に触れ、共に戦おうとする。
が、
「ワカシさん!」
「っ!」
近づく若の手を見て、リョーマが嬉しそうに笑む。
「ワカシさん、俺の手を早く……逃げて!」
二人の声が若にかかる。
「早く逃げて!早…煩い、邪魔をするな!ワカシさん、俺と…若、早く!」
「長太郎!」
若は長太郎に触れる事も出来ず、戸惑ったように手を宙に漂わせ続ける。
手助けしたいのに、その術が思いつかない。
名を呼ぶ事しか若には出来ない。
「長太郎っ!」
泣きながら祈る。
愛する男の勝利だけが若の願い。幸い。
「長太郎……」
見上げれば、長太郎と目が合う。
長太郎は若の目を見つめ、切に叫ぶ。
「早く逃げるんだ、若!早く!」
「だって…お前を置いて逃げるなんて……」
「いいから逃げて!早くっ…逃げちゃ駄目だ!ワカシさんは俺と踊るんだ!俺とっ…邪魔するな!」
入れ代わり立ち代り、長太郎とリョーマが表に顔を出す。
同じ声の争いだが、若にはちゃんと夫の声が聞き分けられていた。
「長太郎!長太郎、負けないで…!」
「若っ……!」
長太郎の目から涙が零れる。
懸命にリョーマを抑え込み、微笑む。
「若、愛してる……。愛してるよ、若」
「俺も……長太郎を愛してる」
聖夜に二人は愛を交わし、微笑み合った。
しかし長くは続かない。
「違う!」
刹那の幸せを闇が切り裂く。
「違う違う!ワカシさんを愛してるのは俺だ!俺を見て、ワカシ……くそっ、消えろっ!」
苦しむ長太郎を見て、若は力を振り絞る。
「待ってろ、長太郎…。すぐに…すぐに助けを呼ぶから……すぐ……」
ぎこちなくだが這うように、若はドアを目指す。
リョーマはそれを許さなかった。
その背を追って左手を伸ばす。
長太郎がそれを妨げる。
右手で左手を引き戻し、足を後ろへと下げる。
一つの体で二人の男が戦い、体は乱れ狂って暴れ続けた。
「わか…」
男が愛する者を呼ぶ。
直後、室内に大きな足音が響き出す。
ドッ、ドダドダッ!
今までと異なる音に若が振り向く。
「ぁあっ」
「うおぉぉおおぉぉおっっっ!!!!」
それはどちらの声だっただろうか。
心の底から絞ったような絶叫が耳をつんざく。
体の向かう先を見て若が顔を歪める。
「長太郎、駄目ぇっ!!」
瞬間、長太郎の体が空を舞った。
長太郎が身を投げた先は窓だ。
フレームには今もガラスの刃が生えていた。
「ちょうた…」
手を伸ばすが当然届かない。
ゆっくりと長太郎の体が落ちていく。

「嫌ァあぁあァぁアあぁァァぁぁッっ!!!!」

−−−−−

パトカーが停まっている。
車中には涙さえ果てた若が保護されていた。
玄関口で後輩が先輩警部に話し掛ける。
「またこの家で事件か。何か呪われてんじゃないっすか」
「そういう事を言うものではない」
後輩の軽率さを諌め、彼は手帳に状況を記す。
ふと、後輩が彼の変化に気づく。
「あれ?真田さん、左利きでしたっけ?」
「む。おかしいな」
顔を上げた真田の目には、若が映り込んでいた。


――君だけに
を。


END


・後書き(12月23日)
 聖夜に向けてホラーを更新してみました。
嫌がらせの様なチョイスですが、そうではないのでご容赦ください。
ただ聖夜の夜に悪夢というのも良いかなというか、ごめん、リョーマ。
このネタは「世にも奇妙な物語」で放映された同名話のWパロです。
以前からいつかリョ→若で書こうと思っていたんです。
そして時期が時期だと言う事で聖夜ネタにアレンジもさせて頂きました。
昨日、このネタを話した時の友人の反応が楽しかったので、つい。
普通にリョ若を書いておけよと、今になって思ったり思わなかったり。
 すっかり狂人のリョーマにごめんなさい。恐怖続きの若にごめんなさい。
中途半端な長太郎にごめんなさい。巻き込んでしまった某先輩・後輩にごめんなさい。
とにもかくにも「ごめんなさい」だらけのネタでした。
でもノリノリで書いてました。若を恐がらせるのは結構楽しかったです。
しかも人妻・若ですから、私の人妻属性がふつふつと……。本当に若は愛しい萌え子です。
暗い話に最後までお付き合い下さり、本当に有難うございました。

 クリスマスなのにこんなに不幸だらけで良いんでしょうか(苦)。それでは。